衆務を虧闕せず
拙僧、以前から「只管打坐」については、或る先輩僧のご指導もあって、「坐禅の時には坐禅を行う」こととして理解している。すると、或る人からちょっとした指摘を受けた。それは、「道元禅師は「坐禅儀」で、『黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禅のみなり』と五祖弘忍禅師を讃歎しているのだから、坐禅以外の修行はありえなかったのだ」という趣旨である。無論、拙僧、この箇所について知らないわけではない。しかし、この「唯務坐禅のみなり」という一節を読んでも、やっぱり叢林修行の中で、他の修行は行っておられたと考えている。ただ、その整合性をどうやって付ければ良いか、それが決着していなかった。ただ、最近、必要があって読んでいた『正法眼蔵』の一節を見て、やっぱり拙僧の考えで良かったのだと思うようになった。まずは、その一節を確認し...衆務を虧闕せず